雑  感
2000年7〜8月


《1945年8月23日》
今日は、更新するつもりはなかったのですが、昨日手に入れた本が、なかなか興味深かったので。

この夏休み、私の大学学部時代の恩師の翻訳書ぐらい、購入して目を通しておくべきだろうと考え、先日、オンラインで注文しておいたのでした。ルート・アンドレーアス=フリードリヒ (若槻敬佐訳) 『ベルリン地下組織 ─ 反ナチ地下抵抗運動の記録』 (未来社 3000円)。 うーむ、まさか、これが BPO に関係する本だったとは。 というか、直接、BPOが出てくるわけではないのですが、戦後、初めてBPOを指揮したレオ・ボルヒャルト (1899〜1945)の戦時中の話が書かれているのです。 この本自体、ボルヒャルトに捧げられたようです。 著者のルート女史は、1930年代から、ボルヒャルトとは同じアパートで隣同士だったようで、 パリへの演奏旅行などにも同行したようですね。 そして、1945年8月23日の夜11時頃、アメリカ軍の流れ弾に車中であたって、ボルヒャルトが46歳の若さで亡くなったとき、同じ車の後部座席に乗っていたようです。

まあ、この後部座席に乗っていたという話は、この本には書かれていなくて、昨年、生誕100年を記念して、ベルリンで出版されたシュトレスナーの本(ヴァインガルテンの序文もある)に書かれているのですが、 このシュトレスナーの本を見ても、このルート女史の本は、ボルヒャルトを知る上での重要文献の一つになっているようです。 まさかこんな本が(しかも、自分の恩師によって)翻訳されていたとは。 残念なのは、翻訳者の若槻先生、今から5年前に、51歳で亡くなられてしまったことです。 この翻訳が出たのは、1991年で、内容を早くから知っていれば、生前、一度お話しに(飲みに?)おうかがいしたかったのに、心残りです。

ルート女史の本で感動的なのは、やはり最後でしょうかね。 1945年4月28日、ボルヒャルトと抵抗運動の仲間たちが、ベルリンに侵攻したソ連軍に連行され、射殺されそうになったとき、モスクワ生まれのボルヒャルトが、「自分たちは反ナチで、あなた方が来るのを待っていた」とロシア語で言い、ロシア国歌を歌って、命拾いしたという話。 最近、カラヤンの文献リストを作成中なのですが、ついでにボルヒャルトのも、作成しようかと思っています。

ところで、この恩師の先生、仙台の大学での院生の頃、カラヤン/BPOの仙台公演があり(1966年でしょう)、 演奏会の後、カラヤンが奥さんと国分町辺りに飲み行ったとき、通訳をされたという話を、学生時代のコンパで聞いた覚えがあります。 当時は、日本の洋酒(輸入)の値段が、海外では信じられないような高額だったようで、 カラヤン夫妻がビックリして目をつりあげたような顔が忘れられないとか (それで、カラヤンがあまり好きではないと言われてもね...)。

今日は、ちょうど、ボルヒャルトの命日にあたるようです。

(8月23日)

《カラヤンのリズム感》
さて、しつこくカラヤンの「影のない女」の話を続けます(^_^;)。 前回ご紹介した室伏さんの文章ですが、他にも興味深い指摘をなされています。 この録音の重要性、カラヤンやウィーン・フィルの気迫を高く評価した上で、 強いて欠点を挙げるとすれば、3点あると書かれています。 そのうちの2点は、ノイズ取り過ぎの問題、フィナーレから拍手までの録音日の問題と、前回触れたものと同じです。

で、もう1点として、カラヤンのリズム感の鈍さを挙げています。

アンサンブル全体が鋭く厳しく音程をとっているのに、指揮者のリズムが鈍いため各フレーズの入りと切りがぼけがちになってしまうのである。 この点については、ほぼ同じ時期の同レベルの歌手、オーケストラによるカイルベルト盤を注意して聴いてみれば、カイルベルトとカラヤンのリズム感の差は絶望的なほど大きいことがわかるであろう。
そう言われてみると、全体として、リズムの鋭さよりは、旋律の流麗な流れの方に重点をおいた演奏のような気もします。 それを、指揮者のリズム感の鈍さと解するか、解釈の違いと解するか、評価が分かれるといったところでしょうか。 私としては、この曲に限らず、カラヤンの曲の流れを重視する解釈が、リズム感を多少犠牲にする方向に働いた面もあるのかな、という指摘と理解したのですが、どうなのでしょう。 カラヤンのリズム感について、何か一家言をお持ちの方がおられましたら、 何かご教示いただけますと、非常にうれしいです。
(8月22日)

1964年6月11日のカラヤンの「影のない女」、放送音源からの正規盤がDGから出て、 めでたし、めでたし、すべては一件落着といきたいところですが、 どうも事情は、そう簡単ではないのが残念なところ。 私の持っているのは、正規盤は国内盤(POCG-10091/3)、非正規盤は HUNT の ARKADIA (CDKAR207.3)と書かれているものですが、 これまでの非正規盤が、まったく不要になるかというと、そういうわけにもいかないようです。 理由を結論から先に書くと、以下の2点になるでしょうか。

放送音源を利用したDG盤も、当時の放送のエアチェックを利用した非正規盤も、基本的にはほとんど録音の質に大きな違いはないような感じです。 しかし、DG盤を聞いたあとで、エアチェック盤を聞き直してみると、テープのヒスノイズなどが盛大に入ってる分、なぜか情報量もかえって多いように思います。 どうも、DG盤は、CD化にあたって、ノイズと同時に、音の情報までカットしてしまったようで、不満をおぼえます。 この辺の違いを、私にはうまく説明できないので、日本シュトラウス協会の会報 No.42 (1998年7月発行)で、室伏博行さんという方が書かれている文章を、ご紹介したいと思います。

このCDの欠点を強いてあげれば、その第一にノイズを取過ぎたCD化であろう。 テープヒスやゴロノイズを見事に取り去ったかわりに、弦楽器による天上的な響きが薄っぺらになったり、オーボエやクラリネットの音色が甘くなったりしている。 また歌手のなかでは特にリザネックの声がその微妙なニュアンスを失っている。

これは本当に残念で、今後のCD化に際しては、ノイズを除去する技術におぼれることなく、音楽的な配慮を優先してやって欲しいと思います。その点、盛大なヒスノイズのある最近の CD-R のカラヤン盤の方が、かえって、安心して聞けるのかも(^_^)。

次に、全曲終了後のかけ声と拍手、同じ6月11日なのに、どうして違うのか。 おそらく、エアチェック盤の方が、当日の雰囲気を正しく伝えているのでしょう。 DG盤は、商品化に際して、終演後の「オー、カラヤン」という声を、 オペラと関係ないことからカットすることにしたのだと思います。 まあ、最近の日本で頻発する、演奏直後の超顰蹙ブラボーだったら、カットしてもいいでしょうが、 この日のかけ声は、そう目障りでもないし、カラヤンのウィーン時代最後のプレミエでの会場の雰囲気を伝えてくれるという点でも、わざわざカットする必要もないような気がします。 というわけで、この日のドキュメントという意味では、エアチェック盤も持っている必要があるのです(^_^)。 なお、先の室伏さん、DG盤では、第3幕のフィナーレの途中から拍手まで、6月17日の録音とつなぎ変えたのではないかと推測しております。 私には、どうも、最後の和音の鳴らし具合など、まったく同じ演奏のように思えるのですが。 私としては、DG盤では、最後の拍手だけ、何か別のものにつなぎ変えたのではないかという気がしています。どなたか、お詳しい方、真偽の程、教えていただけますと幸いです。

室伏さんが持っておられるエアチェック盤は、私のとは違う NE2288/90 という番号だそうですが、私のエアチェック盤では、第2幕の冒頭数小節が欠けていたり、第3幕冒頭の1拍目が欠けています。 第2幕冒頭は、録音を失敗したのかもしれませんが、第3幕冒頭は、拍手をカットしたために欠落したようです。 こちらは、DG盤の方にきちんと入っているのですが、第3幕の始まる前、カラヤンが登場すると盛大な拍手が延々と続いたのでしょう。 で、カラヤンは、拍手を断ち切るように、拍手がまだ消えないうちに、演奏を開始したのです。 私の持っているエアチェック盤は、第3幕開始前の拍手を全部カットしたために、2拍目から始まり、何か、ガクンとくる感じです。

(8月20日)

私がミュンヘンに滞在していた1989年は、リヒャルト・シュトラウスの生誕125年に当たっていて、125回目の誕生日の6月11日には、ミュンヘンでは「ばらの騎士」が上演されました。 指揮はコウトで、ポップやモルなども出演していたのですが、チケットは売り切れにはならなかったように思います。 演奏は、なかなか充実して、予想以上に楽しめた記憶があります。 同じ年、ウィーンでは、前日の6月10日に、アバド指揮で「エレクトラ」のプレミエがあったようです。 こちらはの方は LDで発売されたので、ご存知の方も多いでしょうか。

で、その25年前の1964年は、シュトラウスの生誕100年で、ウィーンでは、カラヤンがウィーン時代の最後の舞台として、「影のない女」を上演したことが語り草になっているようです。 指揮したのは、6月11日と17日の2回。

このウィーンでの「影のない女」について、ウィーン・フィルの団員だったシュトラッサーは、次のように書いています。

1964年春、カラヤンはウィーンでの地位を受けわたすことを決意した。 彼の最後の音楽的活躍は、リヒャルト・シュトラウス生誕百年記念祭であった。
カラヤンはシュトラウスの「影のない女」の上演を手がけた。 その初日は、オーケストラについて見れば、トスカニーニとフルトヴェングラーの日々以来、私が経験したことのなかったほどの極致に達したのであった。 なかでもその2幕、しかもその幕の終結部で、カラヤンはオーケストラを音のエクスタシーへ、技術と音楽の両面での完璧状態へと導いていった。 それは、彼自身が ─ そういうことを私は彼のばあいにはめったに経験したことはないのだが ─ このうえなく感激を示し、この緊張がとけると、まったく感動しきった面もちを見せたということに、よく現われていた。 リヒャルト・ワーグナーの言をかりていえば、それは、いかなる指揮者もまだ歌ったことのないような「絶唱」であった。 この一夕を経験したことのある人びとと語らう機会があるたびごとに、今日でもなお私は、自分の判断がけっして誇張ではないことを発見するのである。
(矢沢昌訳、 1970年代初頭の「レコード芸術」からの切り抜きによる)

カラヤンの「影のない女」は、以前から気になってはいたので、海賊盤(ARKADIA)も、2年間に出た正規盤(DG)も両方とも手には入れたのでした。 しかし、なかなかじっくり聞く機会がなく、ここ数日前から、スコアを見ながら、やっとぼちぼち聞いてみることにしました。 第2幕についてシュトラッサーが書いていることを追体験するには、この録音状態では、ちょっと辛いかなという感じはしましたが、カラヤンが、第2幕は、1場 → 2場 → 4場 → 3場 → 5場 の順に演奏している(つまり4場を3場の前に持ってくる)ことも、やっとスコアで確認しました。 ちなみに、カラヤンセンターのサイトで検索すると、カラヤンが「影のない女」を指揮したのは、このウィーンでの2回の他には、1935年11月1日のアーヘンが1回あるだけで、生涯、3回しか振っていないようです。 70年代以降にも、このオペラを取り上げて、ぜひ録音して欲しかったものです。 叙情的なところと劇的なところとがうまく盛り込まれた、カラヤン向きの作品だと思うんですが。 このオペラを得意としたベームに遠慮したんでしょうかね。 長くなってきたので、この続きは、また後日に。

さて、ご報告が遅くなりましたが、先週の土曜日、ホルツの会インペクの Kさんと無事にお会いし、貴重なお話を、写真も見せていただきながら、じっくりとおうかがいすることができました。 どうもありがとうございました。 これからも、音楽通、BPO通、オペラ通といった方々と、いろいろお会いできますことを楽しみにしております(^_^)。

(8月18日)

どうも、今週は、仙台から高松に戻ってきたのですが、気温の違いに、すっかり参っています。
13日夜放送の「20世紀の名演奏」、それなりに興味深かったですが、 マーラー8番の日本初演での山田一雄の指揮ぶりも、なかなか貴重なニュース映像だと思いました。 1949年の演奏で、ゲーテ生誕200年を記念して、「ファウスト」の終景が使われているマーラーの大交響曲が取り上げられたという、当時のアナウンスも入っていました。 大曲演奏には、それなりに理由付けも必要だったんでしょうかね。 ちなみに、昨年1999年は、ゲーテの生誕250年で、ドイツの書店では、珍しくゲーテ・コーナーがあったりしたことも思い出しました。

今年 2000年は、周知のように、バッハの没後250年。 いろいろ催しがなされていることは、改めて書くまでもないことですが、 今から50年前の1950年は、バッハの没後200年。 ウィーンでは、この年、大バッハ祭の一環で、「マタイ受難曲」が演奏され、 これをめぐって、カラヤンとフルトヴェングラーの確執が決定的なものとなることで有名な一件があったことは、有名な話でしょう。 当初、楽友協会は、フルトヴェングラー/ウィーン・フィルに指揮を依頼したものの、断わってきた(全然返答がなかったという記述もある)ため、代わりにカラヤン/ウィーン響に演奏を依頼。 カラヤンが100回近いリハーサルを終えたあとになって、フルトヴェングラーが突然、自分が振ると言い出して、周囲は混乱。 カラヤンは、結局、自分の合唱団をフルトヴェングラーには使わせなかったため、関係が決裂し、その後、フルトヴェングラーが亡くなるまで、カラヤンはウィーン・フィルを指揮できなくなったというような話だったでしょうか。

フルトヴェングラーも、大人気がないという感じもしますが、他にもカラヤンへの妨害はいろいろとやってきたようですね。 戦後、フルトヴェングラーがシカゴ交響楽団を振るという話が持ち上がったとき、アメリカで戦前から活躍していた音楽家たちが妨害して、実現を阻止したという話があって、この妨害工作に加担した音楽家たちを、私は中学生の頃からあまり好きではないのですが、フルトヴェングラーのやったことも、まあ、どっちもどっちかな、という気もする昨今です。

さて、次回は、気分を入れ換えて、R.シュトラウスの記念イヤーに関する話題でもと思っています。

(8月16日)

今週は、仙台に帰省中であります。
BPOシリーズ、昨日で終了しましたが、7日と8日は、持参した携帯用 DAT で、一応、録音。 その後、9〜11日と、鳴子温泉に出かけたので、9日と10日は、温泉ホテルで小型のイヤフォン・ラジオでの聞き流し。 11日は、録音はせず、BGMとして耳を通しただけという、あまり熱心な鑑賞態度ではなく、お恥ずかしい限りです。 どちらかというと、個人的には、明日放送の「ルル」の方が、興味深いでしょうかね(^_^;)。 あと、解説の高関氏、ご自身のベルリン留学時代に聞いた演奏会の話をよくされてましたが、どうせなら、最近のBPOについても、何かバッサリ言っていただいてもと思いました。

夏の音楽祭にいろいろ行かれている方々がうらやましい限りですが、私の方は、トリスタン本をピアノ伴奏譜を見ながら読むことに、今週は力を入れています。 ワーグナーの作品が好きとはいえ、これまでは、ただ漠然と接してきただけなので、 調べてみると、いろいろ面白そうです。 とはいえ、実際に書いてアップしようと思うと、結構、時間がかかるので、 トリスタンのページの更新も、なかなかはかどらないといったところではありますが。

さて、今回出かけた宮城県の鳴子温泉は陸羽東線沿いにあり、この路線には、1970年代初頭まで蒸気機関車 (SL) が走っていて、よく日帰りで写真などを撮りに行ったりしたものです。 まだ小学生だったので、待機中の機関車の運転台に載せてもらったりということもありました。 C58型という、そう珍しい型番でもなかったせいか、全国的には大きく注目を浴びていたわけでもなかったように思いますが、この鳴子近辺から奥羽山脈の県境までの勾配は、重連(機関車2両で牽引する)の貨物列車も走り、その勇壮が走行ぶりは、未だになつかしい思い出でもあります。 その後、吹奏楽部で打楽器を始め、音楽の方にも関心が広がり、カラヤン/BPOなどにも熱中するものの、SL に対しては、今でもカラヤン時代のBPOと並んで、強い関心を持ち続けているつもりです(^_^)。

ここ数年、夏の帰省では、2泊3日の温泉旅行をするようになっていて (ちなみに、昨年までは、97年 岩手県の網張温泉、98年 宮城県の青根温泉、99年 福島県の土湯温泉)、 今年は、たまたま鳴子温泉となったわけです。 2日目は、鳴子温泉駅から中山平温泉駅まで列車に乗り、そこから鳴子峡を通って、 鳴子温泉まで歩いて戻ってきたりしました。 かつての鳴子 ─ 中山平間の線路沿いは、写真を撮るために何度も歩いたことがあり、非常になつかしいものがありました。 中山平温泉駅には、廃車になった蒸気機関車も置いてあり、すっかりノスタルジックといった雰囲気。

宿泊した鳴子ホテルは、温泉も料理も接客も申し分なく、(ドイツ旅行に備えての?) 家族サービスも兼ねた、いい小旅行となりました。 ただ、2日目の朝に、フロントから不愉快な電話があって、後味が悪かったのが少々残念といったところ。 まあ、鳴子温泉の温泉街は、まだあまり俗化しておらず、なかなかお勧めの温泉地だと思います。

さて、本日の晩は、これからホルツの会のインペクとしてお馴染みのK島さんとお会いする予定になっております。 いろいろ貴重なお話がうかがえるものと、大変に楽しみです(^_^)。

(8月12日)

7月に入り、BPOもシーズンオフとなり、ここの更新も怠っておりました(_ _)。
下に書いてある6月のBPO情報のうち、6月14日、ソニーセンターの正式オープンを記念して、大賀さんがBPOを指揮したという話が抜けておりますので、補足しておきます。 演奏されたのは、ベートーヴェンの第九(ソプラノ:Julia Varady, アルト:Uta Priew, テノール:Roland Wagenführer, バリトン:Eike Wilm Schulte)。 確か、BPOには二千万円ぐらい払ったというような記事も見た覚えがあるのですが、ちょっと再確認できませんでした。 まあ、ソニーセンターは、15億マルク(今のレートだと約800億円?)の工費と4年の工期で作られたようですし、BPOを一晩借りるぐらいのことは、どうということもなかったのでしょう。

2500人を招待しての演奏会のあとのパーティーも盛大だったようで、 「110人のコックが祝宴の用意し、日本から来た8人の寿司職人が、17000個の寿司をにぎった。 (110 Köche bereiteten das Festmahl. Acht Sushi-Meister aus Japan rollten 17 000 rohe Fischröllchen.)」というような文章の載った 新聞記事にも、つい目がいってしまいます(^_^;)。 ソニーセンターで2月にオープンした「ホーフブロイハウス」が、その後、大賀さんによって 「リンデンブロイ」に改名されたという 別の記事もありますが、この店に行かれた方、おられませんでしょうか。 どんな店なのか、教えていただければ幸いです (この9月に7年ぶりのベルリン行きを計画しているので ^_^;)。

ところで、このベルリンのソニーセンターの正式オープンや、大賀さんがBPOを指揮した話題は、その後、日本ではニュースになったのでしょうか。 また、最近のポツダムプラッツ周辺の写真や記事などが載った雑誌など、 何かありませんでしょうかね。

(7月13日)

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